哲学と冗談

L'amore più profondo non può essere facilmente compreso.

評価基準病

人間と話してると、私の言葉尻や目線を気にしすぎて意味わからないことになること、よくある。

 

「太郎さんはどこで髪の毛切るんですか?」

「いや俺は、そんなに髪の毛とか拘ってないから、適当だから、その、今日も全然なにもしてないし、あの。」

 

こういうの。

英文に訳して考えてみるとおかしいことがよくわかるのだけど、「どこで」って聞いてるのになんで彼は、髪の毛の仕上がりについて話してるんだろう。

 

前にTwitterで見たけど、母親に「このご飯誰が作ったの?」って聞いたら「まずいって言うの?!」って怒られたやつ。こういうことってよくありますけど、なんなんでしょう、著しい認知の歪みを感じる。

 

演算能力の高い人が途中の過程を飛ばして答えを言ってしまい素っ頓狂に見える、というのはまた別のフェーズなのでそういう話ではありません。

(例:「明日は晴れるのかな?」「しまった、会社に傘を置き忘れたんだった!」)

 

前述の彼の場合、私の「どこで髪切ったん?」が「アンタの髪、やばいで。」に聞こえるようです。

 

人が話しているときに考えていることがノンバーバルな部分に分かりやすく現れるような現象というものはしばしば発生するのかもしれませんが、私に表出してくる身体言語はノイズが多すぎて分かりづらいことがあるようで、いささか不親切なのかもしれません。

 

が。

 

もはや病気だと思うんです。

他人の口から出る言葉や目で見えることは全て「評価」という一点に帰結すると思い込んでる病。

常に人から評価され慣れすぎていて、小さな措置や取扱いも評価と捉えてしまう。

生きづらい。

 

評価を気にして生きるというのは裏返せば他人からの評価を上げようと努力しているということなので、もしかするとお得に働く(例:モテる、可愛がられる、稼げるようになる、等)かもしれませんが、今日の複雑に発達したシステムの中でその一点だけに集中するのは、脳みそが単純化している、ダサい、ダサいですよ。

そして何より、評価軸で話していない一般の人(優しい)との雑談が極めて困難になる。

目の前にいる生身の人間を面接官と思って圧迫面接自ら受けにいってる人多すぎ。

私がこの"評価(が)基準病"の人の存在に気がついたの高校生くらいなんですよね。それまでは他者とのコミュニケーションという概念が自分の中に確立されていなかったんですけど、ようやく発達が追いついて他人の存在とか意思とかを認識して話すようになったら既に皆は難しいハイコンテクストな世界観に裏打ちされたFPSに興じて生きていた。衝撃ですよ。

人の言った言葉の裏を読めないからクラスとか部活の中で誰と誰が好き同士とか誰と誰が嫌い合ってるとか分からなくて困ってたけど分からないと障害がバレるから超わかるフリしてたんだけど、同じように、評価を基準にして生きてる人が多いから私も評価を気にして生きなければ人間になれないだろうな、と思って評価基準病にあえてなってみたのだけど、なるほどこれが分かりやすく馬鹿になれるというかお得であって脳髄が痺れるくらいベネフィットが得られる、10年前はそれでも生きていけたのだと思う、世界がシンプルだから。

だけど2012年くらいから如実に世の中の「狙い」みたいなものが変遷してきて、付け焼き刃の評価基準病じゃ太刀打ちできなくなってきて、アッサリと"退院"してみたら気づかない間に地球はとても生きやすくなっていた、そして今もどんどん良くなっていく。

それでもまだ10年前の化石みたいな価値観の中で生きてる子は多くて、人からの評価が全ての基準みたいに生きようとしている人が多くて本人それで良いなら良いんだけど多分辛いと思うしこっちに迷惑がかかることはやめてほしい、私の発言に他意はないのに勝手に邪魔しないでほしい。もっともっと複雑になれ、と思う心の底から。