哲学と冗談

L'amore più profondo non può essere facilmente compreso.

理想的な正解を求める

新型コロナウイルスの影響で旅行のキャンセルが相次いでいるらしく、私も去年の今頃まさにフィレンツェに行っていたので、もしもこれが去年だったら帰れなかったかもしれない、とビビりました。

1ヶ月前2ヶ月前のこと考えてみると分かりやすいかと思うのですが、結構、1日先のことすらも見えなくなってますよね。先月の今頃はイタリアがこんなことになるなんて思っていなかったし。

 

私がもし、ちょうど1ヶ月前のあのギリギリにイタリア旅行企画してたとして、どうしたのだろうか。

キャンセルする?いや、いけるか?アジアの方がまだヤバイか?空港は?キャンセル料は?ホテルは?渡航できたとして観光地は営業するか?何を持って行くか?

など、様々な観点から考えても1ヶ月前の感覚では未知すぎて、どう結論づければ最善なのか、分からなかったと思う。

いっそ、旅行会社に「全部とりやめです!」と告げてもらえたら楽だな、と思ったんですよ。

慌ててキャンセルしたのに1ヶ月後意外と収束してたり、逆に強行しようとギリギリまで攻めたら飛行機飛ばなくて終わったり、さまざまな可能性があったわけで。

そしたら、自分ではなく誰かに決断をしてもらったほうが「まあ〜(笑)しょうがないよね(笑)」となるので、精神衛生上とても良い。

 

話の主軸はそこじゃなくて今のは枕なんですけど、人間って何が嫌って、自分の下した決断が間違いだったと認めることが嫌なのだ。

「責任を取るのが嫌だ」とか「お金がかかることが嫌だ」とか、そういう一次的な(シンプルな)困りごとで悩むことって現代ではあまり無い気がする。もちろん悩まないわけではないけど、様々な案件に耐えられるくらい社会のシステムが複雑に支え合い絡み合っていて、そういった最初に考えつくような困りごとには既に誰かが大昔に最適解を出しているから。

 

では現代のヒトは何で悩むのかというと、自分の決めたことが本当に「正解」だったのか、という事で悩む。

何度も言うけど「失敗だったから責任を取るのが嫌だ」じゃないんです、

むしろ、むしろね、

「何が正解で何が失敗だったのか」

が分かりづらい世の中になってるんです。

正解って?失敗って?いつ決める?誰が決める?そもそも決める必要ある?と問い自体曖昧でわかりづらくなっているわりに、社会から「正解」を求められる。

 

「正解である」

ということよりも

「(他者から見て)(法的に考えて)(第三者の意見も鑑みて)(理想的な)(上から怒られないような)(下から慕われるような)(かっこよく)(センスよく)(一目置かれるような)(かつ、無難におさまる範囲の)(全方向から叩かれない)正解である」

という括弧付きのヤバイ回答みたいなものを、皆が渇望してる。しかしそんなものはほとんど存在しない。

存在しないのに、まるで在るかのように振る舞われ、洗脳され社会に放り出された私たち。

頭よく使う人は解を見つけるため模索しようと行動できるけど、できない人は思考停止、結果何が起きるかというと、誰かの意見にただ従うだけの家畜になるか、自分の選んだ解答が正解だったと逆説的に主張するモンスターになる。そのためなら他人が傷つくことも辞さなかったり、矛盾した一貫性のない発言をしたりする。

だって正解を探すことよりも、自分の今いる場所が正解だと無理にでも定義したほうが、楽だから。

でもそれって、誰も幸せにならない道を皆で足引っ張り合いながらゆっくり死んでいくみたいで、滑稽だよね。

 

これは困ったことになった。

2000年代までの地球は、「正解」が一律オーソドックスなもので誰もが認めるような理想だったけど、今は違うんです。(←これは当時「正解」が存在したということではなく、あくまでそういうことになっている前提で個が動くことにより各種システムが円滑に運営されやすく高度経済成長などの利点が多かったという意味です)

多様性を担保することで、世の中が自由になって動きやすくなった。

その分、正解と不正解、⚪︎と×、の明暗が分かりづらくなりグラデーションのように答えが分布する。

頭の固い古い人間は自分の立場を"正解"にするために一生論じて弁解するが、柔軟な新人類はそんな概念一蹴しながら個々と人類のより良い発展のため思案する。

新時代の新人類は、自由が多く一見楽しそうですが、一瞬でも思考停止したら理想とか正解とかあるべき姿とかを他人からドンと浴びせられ、打たれ、小さくなり、結果古い人間と同じ価値観で生きることを強制させられるので注意が必要です。

恐らく昔は、頭を使わないで生きていても世間という教科書を見れば理想解がすぐ閲覧できたので、馬鹿でも生きることが簡単だったのでしょう。そんな人たちが人口の半数以上を占め牛耳ってる世界。もうやめませんか。

 

しかしながら希望はあります。

多様性や自由の獲得により確固たる正解を失った今、ようやく、ようやく、自分の心が考える正解に辿り着くための準備ができたのではないでしょうか。過渡期だからこそ。

サビついた理想的な正解ではなく、自分の経験と知識そして何より心に裏打ちされた真の正解を探そうとすることが許されるこの時代に、思考を使わないことは勿体ないと思います。

まずは頭を働かせる。

明確な答えが欲しい旧人類の人には訳がわからないかもしれないけど、現代は、こうやって生きることが許されているんですよ。

 

自分の下した決断が間違いだったと認めることを怖がるよりも、そもそも今ここで起きていることは現代の軸で考えると間違いでも成功でもないのかもしれない、それよりも人に優しくするにはどうしたらいいんだ?今から幸せになるためにはどうしたらいい?と熟考することが、21世紀バージョンの知性なのだと思います。

私も、がんばります。

 

その脳みそは何のためについているんだ!