哲学と冗談

L'amore più profondo non può essere facilmente compreso.

よだか涅槃

今まで誰にも言ったことないけど宮沢賢治が大好きなんですよね。

そこで、

よだかの星」の展開と考察をしたいなと思って、一気に書きます。

 

すごい簡潔にまとめると、

いやどちらかというと宮沢賢治作品は考察とかよりもとにかく日本語が、日本語が美しいから読んでください。日本人は全員読んでください。

でも考察も楽しいから、まとめてみると、

 

醜いよだか、みんなに嫌われる

嫌われてるけど、自分は【悪いことしてない】から大丈夫

鷹に殺されそうになって初めて生を実感し死ぬことが怖くなった

今まで【悪いことしないで】生きてきたつもりだけど、たくさんの虫を殺してきたことに気づいた

臆病な自尊心と尊大な羞恥心(この表現このブログに何回か登場しますね、テーマなのか?)

自らの死の価値を高めるため、鷹に殺されるのではなく星になることを選ぶ

 

という展開。

(これが間違ってるかもしれないけどね)

 

私がすごい納得するのは【悪いことしてない=良い】って思っちゃうところ、これみんなあると思うんですよね

勿論悪いことしないのが一番だけど、その裏に【良い人だと思われたい】っていう下心がしっかりと土台にあること、ありますよね。

現によだかも「赤ん坊の目白を助けてやったのに」みたいな言いようだったけど、良いことが醜さ・悪さを相殺するみたいな言い方をするんですよ、これはよだか自身も(確固たるヒエラルキーが存在する)鳥社会の中に生きているために、良い悪いと美しい醜いを同じ数直線上に押し並べて測ろうとしている証拠であって。

それってもう訳分からないことになってますよね。

ただ、それを明言せずともきちんと話に盛り込むことができるのも宮沢賢治の手腕で、よだかは聖人君子に見えて実はそうじゃなく、むしろ非常に泥っぽい、人間っぽい自己愛や自己肯定感に苛まれているからこそ絶対正義である星になりたいと願うんですよ。

この後、その星すらも星社会やヒエラルキーがあって結局同じじゃないか、ってとこにいきつくんですけど。

 

賢治は「良い悪い」「美しい醜い」って絶対的な基準なんかないのに勝手に推し量って値札をつけて食べログみたいに評価する人たちの残酷さを徹底して描いていて、それでいて

だけどどうする?

ってとこまで、まるで救いようのない物語のように展開させていくんですね。

 

"まるで"と付け足したのは、私はこれが救いようのない惨めな自殺の物語だとは思っていないからです。

 

よだかはこの時、死を意識することで初めて生きるとは何かを考えはじめ、自分も含め全ての命あるものに対して本当の意味で【優しく】なるのです。

表面だけ優しくなるのは簡単です。前述のように【私は悪いことしてません、だから私は悪人ではない、この世から悪人を排斥しろ!】ってポーズして生きればいいんです。

悪人を排斥して石を投げていれば、絵面だけは良い人になれる。

でも、本当はそうじゃないじゃないですか、勝手に作った善悪の基準に他人を当てはめて、自分よりも悪ポイントが高い人を探して、って、本末転倒も甚だしいじゃないですか。

よだかと他の鳥の決定的な差はここでした。

自分よりも弱いものを食べないと生きていけないこの世界のシステムは残酷かもしれませんが、よだかはそこに気づいたにも関わらず、決して他の鳥や動物を貶すことはしませんでした。そして、よく読むと自分に対して絶望するのではなく、あくまで「(自分が食べたことによって)死んでしまった虫たちがかわいそうだ」という方向で嘆いています。

他の命を食べている鳥や、自分をいじめてきた鳥や、更にはそのような残酷なシステムを採用しているこの世界に対しても、一度も怒らず、絶望せず、最後まで個々の命の尊さだけを一途に考え抜いたところに、よだかの凄さがあるのです。

ベジタリアンの人が、肉を食べている人に対して「動物がかわいそう!」「なんて酷いやつだ!」と言うのは、とても気持ちがいいです。比喩ですよ。

一般論や社会通念上で語られる善悪の【善】側の人間は、【悪】側の人間を懲悪することが何故だか許されて、非難すればするほど【悪】から離れられる気がするんです。

澄んだ瞳で、他人を殺していける。

 

少し話が逸れますが、私は頭のどこかの分野が生まれつきあまり発達していないのか、「気が利かない」人間です。「あなたは本当に気が利かない。何も気づかない。」と母親に何度も言われてきました。

ここでいう気が利く、とは、エレベーターで一緒に降りる人がいたら自分がドアを開けるボタンを押して待ってあげたり、誕生日が近い友人がいたらプレゼントをサプライズで渡してあげたり、そういうことみたいです。

人社会で生きて何年か経つので、こういう明文化できることは頭の中でタスクとして処理するようになって今はできますけど(でもあんまり、よくわかってないです)、逆にここで文章に起こせないことって、本当に何も、何もできない。思いつきすらしないので。

だから、一緒に住むならこういう気が利かない人がいいです。気が利く人って、うちの母親のような人って、他人が気が利かないことに気付くんでしょ、怖すぎる。いや、気が利かない!って怒るのはまだマシなんですよ、そういう素直な人とは、話し合いの余地がある。

問題は、「気が利かない!」じゃなくて「優しくない!私は/俺はこんなに気を遣ってやってるのに!」となる人で、この場合批判されるのは私の気の利かなさ(先天的なもの)ではなく、行動(後天的なもの)なんですよ、分かった上で意地悪してる!って思われるわけです。

彼らにとって「気遣い」は「優しさ」とイコールになるみたいです。

「コーヒーでも買ってこようか」と聞いて「大丈夫です」と言われても、買ってきた方がいいらしいですよ、私は本当に欲しかったら超欲しいありがとうあなたは神か?って言うし、要らない時持ってこられても迷惑だし、と思うのだけど、みんなは違うのでしょうか。

そんな世界なら仕方ないと思って、気遣いポイント、貯めたいと思ったけど万年カラカラです。

価値基準が、一方向に収束していることに、不安を覚えます。わかりますか。

 

話を戻すと、よだか、よだかですよ。

よだかは、ある日気づいたんです、この世界のシステムに。今まで自分によって殺されてきた、かわいそうな虫たちに。

よだかがもしただの馬鹿だったら、食虫反対運動とか、したと思うんですよ、それが【善】側に行く一番簡単かつ素敵な方法だから。

よだかは、ただ、自分によって殺されてきた虫たちの苦しさ辛さを想った。他の鳥だって虫だって命を殺して食べているということには変わりがないけど、そこには一切触れてないんです。自分のことを殺そうとしている鷹に対しても、特に怨みは持っていません。

私は、これこそよだかの優しさだと思います。

なんなら、ここで鷹を殺害予告で訴えることもできたし、さすれば読者の心情もスカッとしますが、よだかはそれを望まないと思います。もう、鷹とかどうでもいいのです。その境地です。

この自殺はよだかの自尊心によるものなのです。

餓死することも鷹に殺されることも選べたけど、せっかくなら自分の死を価値あるものに昇華させたい、という、ワガママです。

物語の中盤でよだかは自分が食べてきた虫のことを想い逡巡しますが、終盤では一転してまっすぐと、まっすぐと空を目指します。

私はこの状態、地上の道理よりも自分自身に一定の信頼をおける状態になることが、(しばしばそれは地上からは奇異に見えることが多い)真に自分の人生を生きるということではないかと思います。この状態を禅とか悟りとかって言葉で表すのかもしれない。心の働きが自分以外の森羅万象に影響されない状態。涅槃。

 

私の目指す一つの到達点でもあります。

ならば死も厭わない。

 

世俗的な我々が考える正しいとか優しいとかって浅くてとても表面的で、もっと深いところ、もっと高いところに、ほんとうの幸せはあるんだよっていうのを、宮沢賢治作品からはいつも感じます。

 

一気に書いてしまいましたが、まだまだ足りない。宮沢賢治について語る会がしたいです。

おやすみなさい。