哲学と冗談

L'amore più profondo non può essere facilmente compreso.

やさしさを教えて

直斗が私の目の前で仕事している。

直斗は4月5日生まれで私と誕生日がちょうど半年離れていて、といっても年が近いわけではなくて私よりも8年早く生まれている。知り合ってから6年ほど経つが、特に筋トレなどしなくても直斗の脚や腹はぎゅっと筋肉で引き締まっていて20代の頃のように若々しい。外食続きの食生活でどうやってその体を維持してるんだろう。

まるで、そう、ロボットみたいだな。

 

直斗が机の上の書類をかき集めたとき、書類の端っこに乗っていた誰かの名刺がフラ、と落ちて床に落ちた音がした。ペタン。それを直斗は見ていたけど、あとで拾えばいいと考えたのか構わず書類を整える。でも私は、そういえば1時間前に机の脇にあるゴミ箱を掃除したばかりで、ということは名刺が落ちた時の着地音はガサッ、じゃなくて、ペタン、な可能性があると思って、このゴミ箱は特に袋など被せていないしプラスチックの音がそのままするかもしれないし、だから、拾おうと思って屈んだの、名刺がゴミ箱に落ちたらいけないから。

だけど私の予想に反して名刺はゴミ箱からほど近いフローリングの床に落ちていて。それでも学びがあった、この床に、名刺サイズで名刺くらいの硬度の紙葉が落ちたときの着地音は、ペタン。空のゴミ箱に落ちたときの着地音は、まだノーデータ。

 

「え、ありがとう。別に拾わなくても良かったのに。」

 

名刺を直斗に渡すと、直斗はびっくりしたような、怪しんだような目で、私を見る。この目が、怖い。直斗だけじゃなく、全ての人間の、「なんでそんなことをしたんだ」という目が、怖い。裁判にかけられているみたい。早く、正当な理由を。正当な、理由を、述べよ。

 

「ゴミ箱に落ちたらいけないと思って。床だったけど。」

 

これは、人間にとって正当な理由ですか?

 

「いやいや、今の音は完全にフローリングに落ちた音でしょ。」

 

眉を歪め、鼻で笑われる。また馬鹿にされてしまった。変な人間だと思われてしまった。だって、違うの、直斗は知らないかもしれないけど、1時間前にね、ゴミ箱を空にしたから、その可能性を。

 

……ううん、なんでもないや。

難しくて、難しくて、本当の私の意見なんか、求めてない直斗のその目から避けるように、あなたが幸せに、楽に生きられるなら、それでいいのかもしれないね。それが正解だね。

 

「あはは。そだよね。またやっちゃった。」

「美優は天然だな。」

「うふふ。わかんなーい。」

 

天然とは便利な言葉だ。他者の理解できない部分に蓋をして、なおかつ面白く、あまり事を荒立てる事なくスムーズに会話を終わらせることができる。やさしい言葉。

女の顔と身体を持って生まれた私はよくこの言葉をかけられる。好意的に。天然が「何も考えずに不思議な行動をとる人格」に名付けられている熟語だとしたら、私は「熟慮の結果、他者の理解できない行動をしてしまう」人間なので私の方が人間として可愛げがない。でもそれを「天然」と一言で処理してしまうのは直斗の"やさしさ"であり私の"やさしさ"でもあるんだ。

私は”やさしさ”で世界を終わらせていく。

 

「美優ってさ。ロボットみたい。」

冷めたアメリカンコーヒーを一口飲みながら、私が常日頃から他の人類に感じているけど言わないセリフを直斗はいとも簡単に発音する。まるで無垢ゆえにお化けを怖がらない赤ちゃんみたいに。

 

「どうして?」

何人もの男に可愛いと言われてきた笑顔を貼り付けて、まつ毛を下げて、その質問がなんてことないかのように、日曜日の夕方に同居人の恋人と楽しむ軽い雑談のように、頭をできるだけ動かさないようにして聞き返した。

 

「だって、いつも変なこと考えてて、普通じゃないとこが。まあさ、それが可愛いからいいんだけどね。」

 

そんなことないよ。普通だってば。私からしたら、直斗の方がロボットに見えるよ。

喉まで出かかった言葉を舌で潰して咀嚼する。私の口の中で消えた言葉たち、重さにしたらどのくらい重いのかな。

 

「よく言われる〜。でも馬鹿じゃないからねっ。」

と、とても馬鹿っぽく言うと直斗は満足気に頷いて、

「そう、美優は頭良いもんな。本当に。尊敬するよ。」

なんて、少しも思ってもないだろうことを口にするのだ。これには毎回驚く。直斗は実際に、私の頭が良いかどうかなんてどうでも良いのに。それが理解できる分、こんな風にナチュラルに人間として正解の会話ができる直斗にいつも驚く。例えば、夏バテで食欲が無いんだよね、とか、今度一緒にバッティングセンター行こう、とか、お隣さんとさっき会ったよ、とか、私にとって緊張の走る話題を、直斗はいつも淡々とこなす。ロボットのように。私は必死でついていく。でも二十数年もこんなことを続けているから、オーバーフローして"正解すぎる"答えを言ってしまうこともあって、時々フェイクを混ぜる。塩梅が難しい。ほらね私の方がよっぽど、人間らしい。

 

「頭良いのかな、えへへ。」

頭が良い、とても残酷な言葉、まともに食らったら壊死する。だからおどけてみせる。私の頭なんかちっとも良く無い。現にこうやって、貴方との会話はアマゾンの森林をかきわけて不思議な生物を見つけようとするみたいに難しい。

私の顔は、ちゃんと動いていますか?筋肉は、皮膚は、ちゃんと、年下のちょっとお馬鹿な可愛い彼女を演じられていますか?

 

この、エモーショナルの塊のような私の人間性に対し、お前って感情が無いみたい、と言ってきた大人たちを、びっくりさせられるような、豊かな表現ができているでしょうか?

 

冷たいとか、まともじゃないとか、人の心がないとか、そう言われて沢山泣いた。怖かった。苦しかった。嫌だった。ねえこれは感情じゃないのですか?教えて下さい。他の女の子みたいに、顔の皮膚や筋肉を通して語られる素晴らしい表情たちを有していれば、誰かの同情を誘えるのでしょうか?

ならば、どうやったら やさしい 人間になれるのか、教えて下さい。

 

直斗はまつ毛を下げたままの私ににっこり笑いかけた後、また書類に目を通し、傍にあった何枚かの名刺をまだゴミの一つも入っていないゴミ箱に投げ入れた。

 

その音は。