綺麗な人(男女問わず)を見るのが趣味でなぜ美しいと感じるのかを研究しているのだけど、綺麗な人といっても大きく2種類に分類できると思う。
美容室に通っていることが一目で分かる艶とデザインが統一された髪の毛、素敵なブランドもしくは古着でもセンスのあるこだわりの服、それらを引き立たせるバランスのとれたメイクと表情、のように、一枚の写真に撮ったときに「綺麗だ」と感じる人。
もう一方は、前述のような静止画の美しさの条件を備えていなくとも生や動画で見ると「ああ、何故だかわからないが美しい」と感じる人。
前者のような美しさを「パッケージ化された美」と称すなら、後者のような美しさは「生きた芸術」だと思う。
後者の「生きた芸術」はその美しさがわからない者には不恰好に映ったりするのでパッケージ美よりも市民権が得られにくいが、私はこの「生きた芸術」を有する人間を見つけると興奮する。世界が動き出す。もっと彼らのいる風景を見たくなる。
目で見てわかる美しさではなく心臓が理解したがる美しさ、毛穴や産毛や細胞までも愛おしく奇跡的な配置になっているように見えて実は全て自明、何故ならそのDNAの配置は本人の遺伝情報つまり本人そのものであるからそうなることが必然であって他の人では再現不可能な極めて限定的な公式のようなもの。
欠けたところや不安定な部分があったとして、その根本である骨組みは変わらずに本人の遺伝情報の通り細胞分裂を続ける。
化粧や服装などで表面的な部分をいくら書き換えてもこの公式は変わらない。
人はこの細胞分裂の公式に対する心の動きを、「恋」と呼ぶのではないか。
宇宙の創り出した神がかり的な60兆個の配置。
何物にも替え難い存在、写真には映らない魅力。
私が整形をおすすめしない理由もこれ。
人がどんどんパッケージ化されていく。確かに静止画を撮ったときに美しい人になることはできるが、それが一体なんだというのだろう。
動く「生きた芸術」を見たときのような、不安定で、不完全で、でも心臓の鼓動が鼓舞して奥底から湧き上がってくるあの感動には敵わない。
生きててよかったと思える恋を、公式を、大切にしよう。