哲学と冗談

L'amore più profondo non può essere facilmente compreso.

壁を登る

議員さん達が宴会したとして、叩かれてますね。

先日菅首相のステーキ会食なども問題になりました。

会いたい人と会わずに自粛したり、お店を閉めたりして頑張っている人たちにとっては、イライラしますよね。

 

これはすごいことになってるぞ、と思って世論を見ようとTwitterやYahooコメントを見てると、

「もうジジババだけで死ねよ」

といった意見がありました。

確かに今回怒られてる人たちってある程度お年を召された方が多いので、感染リスクや高齢者の衛生観などを鑑みると、「ジジババだけで往生会食〜Goto Heaven編〜」は良いアイデアかもしれませんね。

 

え、ほんとに?

本当にそう思います?

 

では考えていきましょう。

意見の真意をわかりやすくするために、まずは2つのパートに分けます。

 

①彼ら(ジジババだけで死ね勢)はなぜ怒っているのか

②彼らはジジババに何を求めているのか

 

 

①彼ら(ジジババだけで死ね勢)はなぜ怒っているのか

から話したいと思います。

 

これ、皮肉でも何でもなく、なぜ怒っているのか、わからなかったんですよ。

だって、自分の家族が会食してきて感染蔓延させてるならまだしも、住んでる場所も環境も遠い、話したこともない議員さんや菅首相(以下、会食ジジババ)が会食してるなんて、どうでもよいことじゃないですか。(まあ回り回って〜っていうのはあるかもしれないが、だとしたらもう地球人全員にキレてください)

だから怒ってる人たちは、自分と会食ジジババがごく近いところにいると思い込んでいる、あるいは実際に近いところにいる人たちなんだと思っていました。

そこで調べたら、違うみたいですね。

どうやら「私たちはこんなに我慢しているのに、楽しく会食していい思いしやがってー!」ってことらしいです。最早ウイルスとか感染拡大とかあんま関係ないらしい。

「いい思い」してる人を叩きたい、縛りたい。具体的に政府に何を期待しているのか自分でもよくわかっていないけど、とにかくいい思いしてる叩きやすい人見つけたから叩いてる、らしい。

 

そこで②に入ります。

②彼らはジジババに何を求めているのか

これ、何も求めてないんですよ。何も。

つまり会食ジジババ、謝罪とかしなくていいっぽいです。完全に部外者。この話のメインテーマなのにこの話の主軸にいないです。ごめんなさいね。

会食ジジババはただの藁人形なので、彼らの「我慢」を解消してあげるのが1番なのでしょうけど、本人たちはその我慢が解消されることも望んでいないと思うんです。抑圧されて鬱屈とした気分の中で「私こんなに頑張ってるのに可哀想」って思いながら生きるのが彼らの幸せだから。皮肉じゃなくて、本当に、そう。不幸や不足感に幸福を感じるタイプ。幸せな人たちだと思います。神に感謝してくださいね。

 

しかし笑ってはいけない。彼らの方が、生存戦略として正しくて、"強い"人類だから。

 

やりたいならやっちゃいなよ、って、思う前に実行してしまう人は、ベルリンの壁を登って射殺された人たちです。安保闘争の際に警官と衝突して圧死した学生たちです。

死に急いだ人たちが善だったのか悪だったのかという話ではない。

結果として死があったり賞賛があったりしただけで、自分の意思決定なり葛藤の末ある一つの選択肢を選んだ。ここに他人がいい思いしてるからどうとか、自分はこんなに不幸だからどうとか、そんなものは介在しない。

どんな選択だったかというよりも、決定を下したことそのものに着目するべきだと思います。

 

私は、決断の末、壁を登って死んでしまっても、それでいいと思っています。

 

 

追記:私の場合の「やっちゃえ」は、家にこもって桃鉄をすることですが……

そんなことより、話を続けて

「ごめんね、こんな話、何の役にも立たないよね……。」

と言われたので

「そんなことないよ。」

って返したけど、この「そんなことないよ」は別に励ましでもなんでもなくて、

 

「そんなことないよ

(全部そうだし)

(全部の会話が、そう)

(この世に、役に立つ話なんてないし……)

(役に立つ話をしようとする人間のつまらなさを知っていますか?)

(そもそも人というものは……)。」

というニュアンスが全部入ってるんですよね、わかりますか?

 

けれども

「だって、君は優しいじゃないか。」

ジェブが真顔で言った。確かにそう言った。

「やだ、冗談でしょ?」

私は得意の皮肉っぽい声と眉をひそめる表情を作って、鼻で笑う。

「私が優しいですって?貴方って本当におかしいわ。笑っちゃう。ねえ、私なんか、コウモリの世話もまともにしたことがないし、冷蔵庫の中にはいつもレモンと膏薬を揃えておかないし、烏帽子もろくに身につけないわ。およそ世間一般で語られるところの"優しいお嬢さん"なんかじゃないのよ。」

「コウモリの世話をして、レモンと膏薬を冷蔵庫に入れて、烏帽子を身につけていたら、優しいのかい。」

「嗚呼呆れた、そうよ。小学校で習わなかった?周りのお嬢さんはみんなそうしてるじゃない。」

「あはは。樺、君は、僕じゃなくて、表面的な優しさ誇示のために翻弄される世間について、呆れてるんじゃないのかな。」

「そんなことないわ。どれも、素敵なことだと思うもの。」

 

そうして私は、両手に掴んだ雌鶏の、ふっくらとしたお腹をさする。

 

「君にはできっこない。」

 

声は冗談のようにニコニコしながら、目だけは真っ直ぐ冷静な瞳。

その、何でも見透かしてしまうようなジェブの悪戯心にはいつも根負けしてしまう。

 

「……わかった。わかりました。私には、これを、お祭りのゲームのために殺めることはできない。優しくない、教養の無い人間で、申し訳ないわ。」

精一杯の作り笑顔のために口角を上げる。目はどうしても伏せてしまう。

 

「君は本当に、変だけど。優しい人だね。」

「嘘はやめてジェブ。怒るわよ。」

「おやおやごめんなさい。でもね樺、僕は、もしかしたらこの宇宙のどこかに、今僕たちが知っているマナーや教養や常識なんか、とてもナンセンスで馬鹿げていて狂っている、そんなことを言ってくれる星がある気がするんだ。」

 

雌鶏を抱きしめる。

きっとこんなことをしたら、また、あの女はおかしい、檻に閉じ込めろ!なんて言われてしまう。

 

けれども。

 

「樺、雌鶏をそんな風に抱く女の子は、僕見たことないよ。今まで一度も。」

 

呆れてるのか馬鹿にしてるのか、はたまた諦めてるのかわからない。それでもジェブは優しい瞳で、私を見つめてくれる。

その、宮司のような美しい瞳を見ていると、不意に涙が溢れてきた。

班長

駅で、久しぶりに与島くんを見た。

通称、班長

高校1年生の時の鎌倉遠足で、クジ引きで決めた行動班、の、班長

男子4名、女子2名の6人班で、入学したばかりでまだ各々の個が確立していなかった我々は、メガネをかけていて一番インテリっぽい与島くんに班長を任せた。

役職を与えられた班長班長らしくなり、遠足のための話し合いや勉強会なども積極的に行なってくれた。

私は与島くんの名前を知らなかったので、班長、と呼んでいたし与島くんもそれで応じてくれていた。

 

鎌倉遠足は現地集合で、ある程度の距離を慣れない路線に乗って向かわなければならない。

携帯で乗換案内を調べつつも、電車音痴・方向音痴の私は不安に駆られながらラッシュ時の電車に乗り込んだ。慣れない電車のラッシュ時は勝手が分からないので余計に辛い。

そのとき、サラリーマンのおじさん達にぎゅうぎゅうと押される、メガネの男子高校生が見えた。

 

「あ、はんちょー。」

 

声をかけると班長は「あ」と呟いて手を振った。周りのサラリーマンが、私たちを知り合いと見るや何となく空間を空けてくれた。私は班長と話す気は無かったし多分班長もそうだったけど、この無言の厚意を無碍にはできず、結局我々は近寄ることにした。

 

「おはよう。班長もこの路線なんだね。」

「うん、この電車初めて乗るから、間違ってないか不安だったよ。」

班長がいるなら多分合ってるよ。」

 

なんとなく会話を始める私たち。そのとき、班長と班員、って関係性にふと心地よさを覚えた。仲良しのクラスメイトでも、部活の友達でも、ましてや恋仲でもない、なんでもない、弱い関係。隣にいるときにしか存在を認識できないくらいの、弱い、弱い関係。

 

「鎌倉ってさ、初めて行くんだよね。」

「俺もだよ。ちゃんと先生たちのいるチェック地点に行けるといいけど。」

「頼りにしてるよ、班長。」

「他力本願だな。」

「東京以外の場所って、よくわからないんだもん。」

「あんまり国内旅行したことないの?」

「ないかも。沖縄も北海道も行ったことない。京都は修学旅行で行ったかな。」

「北海道はいいよ。食も観光も全て揃ってるって感じで。」

「チーズケーキ?なんだっけ、美味しそうだよね。」

 

 

そんな、簡単な、適当な、歌みたいな会話をずっとしながら、それがなんだか心地よくてびっくりしたんだけど、電車はちゃんと鎌倉駅に着いた。

 

駅には他の班員が既に待っていて、私はもう1人の女子と、班長も他の仲良い男子と、それぞれくっついて、一日中、私と班長が会話することはなかった。

 

避けてたわけでも意識してたわけでもないけど、高校生とはそういうものなのだ。

 

お互い歩み寄るとか、

せっかくなら掘り下げようとか、

明日以降気まずくならないようにとか、

 

そういうのを一切考えずに、ただ、何も考えず、自分の興味のあること以外には気力を使うことなく、生きる。

それが高校生にとっての正解。いや、もしやすると人間にとっての正解だったりして。

 

班長班長としての責務をしっかりと果たした。鎌倉の道を予習して覚えていたらしく、我々は迷うことなく次々と観光スポットを巡ることができた。

 

その鎌倉遠足以降、私と班長が仲良くなることも近づくことも勿論なく、我々はふつうに卒業し、お互いを思い出すこともなくふつうに生きていた。

 

だから、与島くんを駅で見たとき、ああ、班長だ、以上の感想がなくて、

 

「あ、はんちょー。」

 

とあの時みたいに呟いた。

でも誰にも、与島くんにも、聞こえてなくて、

与島くんは私の真横をさっと通り過ぎて、見えなくなってしまった。

 

次の瞬間、全然知らない気持ち悪いおじさんに、ナンパ?された。ああ、気持ち悪い。私はこういう男には何も話さずさっと離れるんだけど、離れながら班長との鎌倉までの道のりがなぜ心地よかったのか、そのときやっとわかった。

 

誰でもない人として、扱ってくれたからだ。

ただ1人の「人」として、私と対等に、歌うように会話してくれたからだ。

 

とっても弱い関係だったけど、私にとって、誰でもない人、ただの班長でいてくれた与島くん。

 

聞きたいことも話したいことも特にないし、呼び止める理由も無かったけど、それが彼と私の正解だったから、本当に、何も、何も思わなかった、ここまで心が乱されない人間関係は、少しだけ貴重だな、と思い、歩き出した。

落ち着いて

優しくなりたい。

優しくなるためには、賢くなきゃいけない。余裕がないといけない。

努力でどうにかなる部分かな。だとしたら、努力したいな。

大切な人を傷つけないように生きたいのに傷つけていることに後から気づく。

ゆっくり、話そうと思うけどいつも狂ってしまう。

楽しくて、

感情が優位で、

目の前の楽しいを優先させてしまって、あとで落ち込む。

もうちょっと落ち着きたい、ごめんなさい。

電車が苦手

今更だが、電車通勤が苦手なのである。

満員電車とか不特定多数の人との接触が嫌、とかもあるけど、なによりプリミティブでない移動の仕方に違和を感じすぎて、上手く電車に乗ることができない。

例えば8時に家を出て徒歩で駅まで行って、改札を抜けてホームで待ってそこから8時7分発の電車に乗り、車両に乗っている間は「私の仕事W=力F×距離L=ゼロ」なので【無】であり、ドアが開いて階段を上り改札を抜けて出口まで行くと別の駅に8時20分とかに着いてるのだ。怖い。怖すぎる。錬金術でも使っているんじゃないか。私は何もしていない!

8時20分に目的駅に着きたいとして、逆算して8時7分発の電車に乗る、みたいなことができる人が不思議で仕方ない。この人たちは、電車の車両の床に足を乗せているだけで本当に時間通りに大手町駅に到着すると思っている、すごい、現代人だ、アトムの世界だ、犯罪都市Neoトーキョーだ。

一方、私が電車に乗る時はいつも早すぎるか遅すぎる。電車に乗ってる間の自分が車両ごとところてんになったみたいで、そこの時間軸だけグニャリとゆがんでしまうのだ。

あまりにも電車に乗る才能が無さすぎて、「ADHD遅刻あるある」みたいなwebページ読んで解決策を望んだのだけど「前日決めた時間の通りに、家を出ましょう」みたいな対処療法しか書いてなくて落ち込んだ。

私は時間通りに電車に乗る方法ではなく、電車のことを移動手段として主体的に信じる方法を知りたかった。

そこで、今度は23区の東京メトロ路線図を駅で貰ってみた。駅名を覚えることはできたが、私の中では半蔵門線青山駅丸ノ内線四ツ谷駅もただの細長い箱に見える、その2つが赤坂見附駅を介して繋がっているという事実は、クロスワードパズルのクロスになっている部分の文字は み です、くらいの情報量しかなかった。

3次元で考えてみたら上手くいくかもしれないと思って、地下鉄の立体路線図をダウンロードしてみたらこれが案外上手くいって、少しだけ電車への信頼度が上がった。私と同じような電車懐疑派の方にはおすすめです。

しかし私はまだ電車に対し全幅の信頼を寄せているわけではない。なぜならメトロ立体路線図を頭に入れても、それはあくまで東京地下鉄株式会社の歴史的背景や物理的な距離と営業キロとの差分が明確になったというのみで、8時7分の電車に乗るために駅のホームに8時6分までに着くといったことはもっと根本的でソーシャルで文化的な、なにか私の知らない信仰が国民の間で発達しているとしか思えない。なのでこれは電車の問題ではないですね、恐らく人間の知恵や常識を超えたところにある人類観のようなものでしょう。私も早く「そっち側」にいきたいものです。どなたかご教示願います。

 

現在、幸運なことに職場の近くから歩きで通えている。やはり徒歩は最高、完成されたプリミティブ。

電車通勤だったら、私は今頃仕事を辞めるかクビになっていた。本当に、電車に乗ることができない。時間制限があると更に具合が悪くなる。

毎日電車で通っていてそれが一定期間続いているあなた、人類の中でも上位層の限られた才能の持ち主です、誇っていいと思います。

私と同じ症状のあなた、頑張ってきましたね。今までは挫けたり落ち込んだりすることが多かったかもしれません。しかし、救いはあります。朝、会社の最寄駅で乗り込んできた人を呼び止めて家を交換してもらいなさい。

 

みんなで素敵な電車ライフを送りましょう。

評価基準病

人間と話してると、私の言葉尻や目線を気にしすぎて意味わからないことになること、よくある。

 

「太郎さんはどこで髪の毛切るんですか?」

「いや俺は、そんなに髪の毛とか拘ってないから、適当だから、その、今日も全然なにもしてないし、あの。」

 

こういうの。

英文に訳して考えてみるとおかしいことがよくわかるのだけど、「どこで」って聞いてるのになんで彼は、髪の毛の仕上がりについて話してるんだろう。

 

前にTwitterで見たけど、母親に「このご飯誰が作ったの?」って聞いたら「まずいって言うの?!」って怒られたやつ。こういうことってよくありますけど、なんなんでしょう、著しい認知の歪みを感じる。

 

演算能力の高い人が途中の過程を飛ばして答えを言ってしまい素っ頓狂に見える、というのはまた別のフェーズなのでそういう話ではありません。

(例:「明日は晴れるのかな?」「しまった、会社に傘を置き忘れたんだった!」)

 

前述の彼の場合、私の「どこで髪切ったん?」が「アンタの髪、やばいで。」に聞こえるようです。

 

人が話しているときに考えていることがノンバーバルな部分に分かりやすく現れるような現象というものはしばしば発生するのかもしれませんが、私に表出してくる身体言語はノイズが多すぎて分かりづらいことがあるようで、いささか不親切なのかもしれません。

 

が。

 

もはや病気だと思うんです。

他人の口から出る言葉や目で見えることは全て「評価」という一点に帰結すると思い込んでる病。

常に人から評価され慣れすぎていて、小さな措置や取扱いも評価と捉えてしまう。

生きづらい。

 

評価を気にして生きるというのは裏返せば他人からの評価を上げようと努力しているということなので、もしかするとお得に働く(例:モテる、可愛がられる、稼げるようになる、等)かもしれませんが、今日の複雑に発達したシステムの中でその一点だけに集中するのは、脳みそが単純化している、ダサい、ダサいですよ。

そして何より、評価軸で話していない一般の人(優しい)との雑談が極めて困難になる。

目の前にいる生身の人間を面接官と思って圧迫面接自ら受けにいってる人多すぎ。

私がこの"評価(が)基準病"の人の存在に気がついたの高校生くらいなんですよね。それまでは他者とのコミュニケーションという概念が自分の中に確立されていなかったんですけど、ようやく発達が追いついて他人の存在とか意思とかを認識して話すようになったら既に皆は難しいハイコンテクストな世界観に裏打ちされたFPSに興じて生きていた。衝撃ですよ。

人の言った言葉の裏を読めないからクラスとか部活の中で誰と誰が好き同士とか誰と誰が嫌い合ってるとか分からなくて困ってたけど分からないと障害がバレるから超わかるフリしてたんだけど、同じように、評価を基準にして生きてる人が多いから私も評価を気にして生きなければ人間になれないだろうな、と思って評価基準病にあえてなってみたのだけど、なるほどこれが分かりやすく馬鹿になれるというかお得であって脳髄が痺れるくらいベネフィットが得られる、10年前はそれでも生きていけたのだと思う、世界がシンプルだから。

だけど2012年くらいから如実に世の中の「狙い」みたいなものが変遷してきて、付け焼き刃の評価基準病じゃ太刀打ちできなくなってきて、アッサリと"退院"してみたら気づかない間に地球はとても生きやすくなっていた、そして今もどんどん良くなっていく。

それでもまだ10年前の化石みたいな価値観の中で生きてる子は多くて、人からの評価が全ての基準みたいに生きようとしている人が多くて本人それで良いなら良いんだけど多分辛いと思うしこっちに迷惑がかかることはやめてほしい、私の発言に他意はないのに勝手に邪魔しないでほしい。もっともっと複雑になれ、と思う心の底から。